この夢から出られない

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曽根勇二『片桐且元』/黒田基樹『羽柴家崩壊』

曽根勇二『片桐且元』の方は人物叢書。最近の八王子古本まつりで購入。

黒田基樹『羽柴家崩壊』は中世から近世へというシリーズもの。5年以上前に買って読んだきり。

今回、『片桐且元』を読んだついでに『羽柴家崩壊』も読み返した。

 

というのも、『片桐且元』は人物叢書だけあって且元の人生を追っているが、一番焦点があたる方広寺鐘銘事件~大阪出奔についてはあまり記載がない。反対に、『羽柴家崩壊』の方は方広寺鐘銘事件~大阪出奔がメイン。お互い補完してくれている。

 

こうやって2冊並べて読んでいると、差異があったりして面白い。以下気になった点を記載する。

 

関ヶ原合戦時の且元

片桐且元』の方では、且元邸に家康が泊まるなどそれまで家康と親密な関係であったものの*1、大津城攻撃軍に且元の弟貞隆や部下が加わっていたとされる。京極高次が徳川方についた際、すでに石田方の主力は払底していたため仕方なく大坂旗本衆*2が出陣することになったとのこと。ただし、消極的な出陣であったとも記載がある。*3

『羽柴家崩壊』では且元は「明確な家康派」*4とされるのみ。

 

且元はこの後1万4千石も加増されているので、少なくとも敵とみなされてはいないだろう。しかし、消極的とはいえ秀頼側近たちが出陣したことはお咎めなしだったのか。

 

家康と且元の協力について

そもそも且元が秀頼の守役として羽柴家の家政全般を見るようになったのは秀吉が死ぬ直前*5である。正式に家老となったのは前述の加増に合わせてらしい。*6そして、関ヶ原以降、且元は羽柴家の家老として家康の戦後体制構築に協力していくことになる。これは『片桐且元』に詳しい。

片桐且元』を読んでいると、且元は羽柴家を守る目的から家康と協力をしていたように読み取れる。家康も且元の立場があったからこそ協力していたように読み取れる。*7

一方、『羽柴家崩壊』では且元がもともと家康と親しかったことから家康との連絡を許され、重用されていたように記載される。*8

2つとも似ているようで少し違う理由である。個人的には『片桐且元』の方が正確に思えてしまうが……。『羽柴家崩壊』はこの辺はメインターゲットではないので、説明を省略したのだろうか。

 

方広寺鐘銘事件時の「三条件

・他の大名と同様に秀頼が江戸に在住するか

・茶々が人質として江戸に在住するか

大坂城を明け渡して他国に国替えとなるか

 

「君臣豊楽」「国家安康」の銘が家康を呪うものとして批難された際、徳川方から羽柴方に突きつけた条件だが、条件の出どころについて両書で異なる。

 

片桐且元』では、且元が駿府での交渉を終えて大坂に帰還途中、同じく交渉していた大蔵卿局と近江土山宿で会合した際、且元から徳川方への"証明""私案"として大蔵卿局に対して提示した条件とされる。順調に交渉は行えていると認識していた大蔵卿局はこれを且元の裏切りと決めつけてしまったとされる。*9

ところが『羽柴家崩壊』では家康から示されていた3つの条件として大坂に帰還後に秀頼らに申し上げたこととしている。この条件を聞いた秀頼や茶々はひとつも飲めない条件として、こんな意見を言う且元を疑うようになったとされる。*10

且元発案の私案であるのか、家康から明確に示されたのかでかなり話が違うのではないか。また、途中経過である大蔵卿局との会談がなかったことになっている。

『羽柴家崩壊』は『片桐且元』の16年後に出た本で、参考文献にもばっちり『片桐且元』はリストアップされている。つまり、『羽柴家崩壊』では意図的に『片桐且元』記載内容を採用していないこととなる。

片桐且元』では駿府での具体的な交渉経過も記載されているため、『片桐且元』に問題があるようには見えないのだが……。著者から見て、『片桐且元』で採用している史料に疑問があったりしたのだろうか。

 

全体の感想

片桐且元』に出てくる「且元は新たな公儀となった徳川家に協力することで羽柴家を守ろうとした」という主張を、本人が手紙に記したりしたものは残っていないんだよな……。『羽柴家崩壊』にも茶々が出した「ひたすら且元を頼りにしている」という書状を紹介しているが、残念ながら且元からの返事は残っていないとのこと。*11大坂城焼けたので当たり前だが。茶々の書状も「家康との間をなんとか取り持ってくれ」という懇願が見える。

実は後世のイメージと違って片桐且元はめちゃくちゃドライで、関ヶ原以降は家康と主従関係を結んでいると自認しており、すべて家康の命令だからということで羽柴家の家老をやっていた……ていうのもあり得るかもしれない。

流石に無いか。二条城での家康と秀頼の会見についてなんとか話をまとめ上げた姿勢がまず大きな証拠。加えて大阪の陣直前の、且元が大坂退去に至る騒動でも逸る家臣を抑えて交戦するなと命じたり、秀頼に二心はないと弁明したり、退去の際は家老として抑えていた書類を清算して大坂城に渡したりとしたあくまで秀頼に対して他意はないことを示す態度も証拠の一つだろう。

戦国の世だと珍しくなかった、徳川家と羽柴家両方に仕えているという"両属"の認識だったのか。それとも仕えているのは羽柴家だが、新たな"公儀"である徳川家とも密接に連絡し、協力していただけなのか。ふつうに考えれば後者だろうな。

『羽柴家崩壊』では先の"三条件"が大坂に伝えられて以降、且元が同じく重臣であった弟の貞隆と一緒に大坂城を去るまでの緊迫した空気を伝えている。家老として比類なき権力・秀吉時代からの豊富な経験・家康との連絡を担える人脈。これらを兼ね備えていた且元が大坂城を去ったことを以て"羽柴家崩壊"としている。

片桐且元』が伝える事務官僚としての働きに加えて、関ヶ原以降の特殊な地位にあった羽柴家を14年も持たせた手腕を鑑みると、且元はかなりのスーパーマンだったように思われる。

*1:曽根 P90

*2:且元だけでなく且元と同僚だった小出秀政らもいた

*3:曽根 P97~101

*4:黒田 P62

*5:曽根 P89

*6:曽根 P103

*7:例えば曽根 P111~

*8:黒田 P62

*9:曽根 P238~239

*10:黒田 P130~132

*11:黒田 P82~114