昭和54年中公文庫版。古本で買った後新装版があったことを知るが、そっちも20年前だし結局古本だろう。
細川護貞については、この時期だけを捉えるなら近衛文麿の側近というところでよいだろう。
上巻は高松宮の情報収集係となった昭和18年11月から東条内閣が倒れる昭和19年7月まで。
感想
内容についてここが正確・ここが不正確と言えるほど知識はないが、読んでいてもやもやする内容であった。近衛グループは東条内閣に見切りをつけ倒閣に動くのだが、なんとも煮え切らない行動しかしないのだ。
近衛が優柔不断で決断力に乏しいのはもう常識として。本書の中でも近衛の優柔不断っぷりを批判する内容が散見されるが、細川を含む近衛グループ全体に好感を持てない。
昭和18年11月の時点ではすでに東条内閣を打倒すべきと考えていたようだが、昭和19年7月の東条辞職まで、下記2点についていまいち本気度が伝わってこなかった。
①倒閣方法の考慮
②東条に代わる内閣の案
①倒閣方法
倒閣方法については、天皇が皇室の言は聞くことを利用して、高松宮を通じて天皇の東条に対する信任を揺るがすよう努力していた。しかし、最初の数か月は高松宮が乗り気でない。*1
工作の甲斐あって高松宮も乗り気になるが、天皇が高松宮の意見を全て受け入れるわけでもない。結局サイパン島が陥落し東条自身が行き詰る19年7月まで裏で策謀を巡らすのみ。
著者と同じく近衛側近の富田健治の言として、首相自身の病気かテロルしかない*2とあり、グループ全体で同じような考えだったのだろう。しかし、著者はテロ自体には反対だった模様なので、やはり倒閣は天皇の気が反東条に向くまで良く言えば慎重に、悪く言えば気長にやるつもりだったのだろう。東条内閣倒閣が実現した昭和19年7月になると著者についてはテロ実行の決意が固まったような記述が出てくるが、遅くないか?
②東条に代わる内閣の案
昭和19年春~夏ごろになると柳川内閣・海軍内閣・高松宮内閣・東久邇宮内閣という言葉が出てくるものの、昭和18年当初はまったく出てこない。この点が高松宮の説得に時間のかかった最大のネックであったのではないか?本書には今こそ近衛が立つべきではないのかといった旨の記載もあるが、*3著者が近衛にそれを言上する様子は①と同じく昭和19年7月にならないとみられない。*4
近衛グループは皇道派を陸相に起用して陸軍の粛軍を断行することはかなりこだわっていた。特に柳川平助に対しての期待が高い。柳川と小畑が候補に挙がっているが、著者としては柳川の方がよいとのこと。*5
ただし、柳川をはじめとした皇道派は天皇の覚えが悪い。*6しかも皇道派には荒木陸相時に相当な党派人事をやったにも関わらず、柳川は公平に・穏当に済ますだろうとなぜか全幅の信頼を置いている。現役引退から6~7年もたっている柳川や小畑がどうして陸軍内で自由に力を振るうことができると思っているのかがイマイチわからない。
これら行動の遅さ・固まらなさが災いしてか東条辞職後の重臣会議では一位寺内・二位小磯・三位畑という現役or予備役陸軍大将3人が推薦され、小磯に決まった。重臣会議メンバーへの根回しもできず、結局平沼が推した小磯に決まったのは近衛グループの失敗と言えるだろう。本書にはこの段階まで小磯の名前はほとんど出ないので。
当然根回しも何もしていない小磯には皇道派起用なんて考えはなく……というか宇垣一派だった小磯は皇道派と仲良くないだろう。同じく元宇垣一派で、つい半年前まで参謀総長だった杉山元がまたまた陸相をやることになったのであった。
皇道派陸相?
冷静に考えると陸相を決定する主体は首相ですらなく陸軍であるし。いったいどうやって皇道派将軍を陸相に起用しようとしていたのか……。まず予備役から現役復帰しなきゃいけないし。
阿部内閣成立時に、天皇が強く畑と梅津を推して畑に決まったことはあったのでそのやり方で行けると思っていたのか。天皇の印象が悪い皇道派をその方法で就けられるのか……?
他雑記
・東条に責任を取らせるためにギリギリまで東条にやらせりゃいいだろう、みたいな言説も途中出てきたりする。一貫性がなく、自身らが責任をもって国を引っ張ろうとしていたとは思えない。
・昭和19年6月。このまま東条が自殺したら政治的にやりにくくなる。遺書に自分がわるかったとでも書いてくれたらいいが……→著者「遺書位なら偽作してもいいではないですか」という言い草。*7 いいわけないだろ。
・昭和19年5月末~6月にかけて近衛グループで関西視察に行く。工場見学などはいいとして、夜はスッポン料理など食ったり、宴会したり。戦局を考えると、やっぱどこか浮世離れしているよなあという印象。国民に対してもあまり寄り添うような描写はなく、どこまでいっても華族かこの人たちは……と思ってしまった。