細川日記 (下) 感想

上が昭和18年11月~昭和19年7月なのに対して、下は昭和19年8月~昭和21年10月。

同じ厚さの文庫本なのに下の方が期間が長い。東条内閣倒閣運動のための情報収集に忙しく書く内容が多かった上に対して、下の方は1~2週間くらい間が空いたりする。

 

東条内閣倒閣一本槍だった上とは異なり期間ごとに内容が違う。

そのため、感想も期間ごとに書くつもりだったが、如何せん期間も長ければ内容も多方にわたる。感想というか、気になった点のメモになってしまった。

ページ数は上巻との通算ページを記載。

 

小磯内閣期

小磯内閣に対して賛否を明らかにするシーンは少ない。高松宮に伺候する回数は月1未満に減っている。高松宮の情報収集任務はいつのまに終わったのだろうか……?近衛と会うのも1か月くらい空いたりする。原田男爵に「近衛がどれだけ腹を決めてゐるのか君わからぬか」*1と問われ、答えに窮す場面も。

ムダな宴会などに出席する必要もなく、勉強に集中できてよい*2みたいな記載もあるなど、政治からずいぶん離れてしまった感じがある。

昭和20年2月あたりからぽつぽつ「転換」という語がまた使われるようになる。政策の転換、すなわち終戦のことである。小磯内閣の終焉後に同じような内閣が出来てはだめで、かならず和平内閣を作るべきとのこと。著者は近衛に出てほしいと思っているらしいが……。

小磯内閣→鈴木内閣への倒閣は特に重臣たちが主導したということもなく。ただ、もうすぐ倒れるということはみんな承知の上だったらしい。

後継内閣について、内閣首班に鈴木貫太郎を持ってくる案は近衛の中にあったらしい。小磯内閣の時みたいに、何も手を出せずといったところではなかった模様。重臣会議の際は鈴木自身が乗り気ではなかったが、東条以外の重臣はすんなり鈴木で一致。

 

鈴木内閣期

鈴木内閣組閣は近衛も一枚嚙むことに成功し、近衛に近い大臣がちらほら入閣したとのこと。ただし、著者は迫水・広瀬・秋永ら革新官僚が内閣のポストを得たことを異常なまでに警戒している。

小磯内閣倒閣あたりで著者が京都に引っ越してしまったので、政界の話はぐんと少なくなる。鈴木内閣に対する評価はまちまちというか、表面上は徹底抗戦を主張しつつ和平に動いているのだろうと推測している。ただ革新官僚出身者が嫌い。梅津も次期首相を狙って何もしない(と決めつけている)ので嫌い。この2人がそろって梅津内閣に向かっていると想像している。昭和20年5月の日記に、"迫水が平沼にいぢめられている"状況で国内の収集は不可。近いうちに"挂冠(辞職)"して再度鈴木貫太郎に大命再降下するか、宮様内閣ができると予想している。*3

和平にもっていきたい気持ちがありながら、会議等でうまく話を進めていけない木戸・鈴木・米内の大根役者っぷりを批判する記述アリ。*4 "嗚呼、余をして其の地位に在らしめば、余の菲才を以てしても、尚此等大根に勝れるの確信あり"だってさ。俺が監督だったらもっとうまくやるっていうプロ野球ファンみたいだ。

こんな感じに遠くから批評的な立場を保っていた著者だが、近衛が勅使としてソ連へ行き和平交渉にあたるとの話がでて、著者も同行を求められる。

ソ連を通じた和平交渉は、6月22日に天皇自ら"旧来の観念にとらわれず、勅語をもって終戦する"旨内閣の主要メンバーに伝えられたことから出てきた発想とのこと。近衛が行くことになったのも陛下のお召しにより伝えられたとの記載。和平条件は国体護持のみ、他は無条件降伏という話でまとめようとしていたようだ。ソ連からは引き伸ばすためのふわっとした返答しか来ず、ソ連参戦を迎えることになった。

 

終戦間際

8月8日に著者は近衛に対して「和平問題は相手が内閣を信じるかにかかっている。陸軍が和平に反対して混乱するような内閣ではダメ。電光石火内閣を更迭し、粛軍を断行し、国内体制を一新して和平に臨むべきだ」との旨言上している。ちょっと前に高松宮と会見して、首相は鈴木のままでよいと言われているのに……。また、この件について近衛からの返答などは記載されていない。

8月9日にソ連参戦の話を高松宮にされて「むしろ絶好の好機だ。殿下自ら内閣の首班となって英米と和平するべきだ」と申し上げているので内閣更迭=宮様内閣なのだろう。高松宮には「近衛にやらせろ」と言われる。近衛と話して木戸内大臣に話を持っていこうとしたところ、ちょうど鈴木総理が来てポツダム宣言に条件を附して受諾の方針が決まったと言われたらしい。内閣更迭の話はここで終わり、ここからは日本のいちばん長い日で有名な和平条件についての議論が書かれたり書かれなかったりしている。

内閣の役職に近衛が就いていない以上、正式な決定には関われずに終戦となった。重臣として表に立たず、影で政界に影響力を持つといったスタンスには限界があるということだろう。

 

東久邇宮内閣期

東久邇宮内閣の組閣に近衛はガッツリ噛むことに。ただし、もう一方の主軸であった緒方竹虎に遠慮しているとも。*5著者は総理秘書官をやらされそうになったが、数日組閣に走り回るだけで疲労困憊するようでは長続きしない+政治状況の複雑さに辞退して近衛の秘書官に落ち着いたとのこと。秘書官としては有象無象の面会希望者をさばいたり、急な組閣で東久邇宮・近衛・緒方三者間の思惑が一致しないため会議をセッティングしたりと忙しそうだ。*6近衛自身もテロを恐れて居場所を転々とする状況だったとのこと。*7

 

9月に入り、連合軍の進駐・戦犯指定が始まると東久邇宮内閣は急激に評判が悪くなった。宮様内閣という存在自体の批判、東久邇宮の素質への不安、内閣に戦時内閣で閣員だったものがいることへの不満。*8

 

9月後半になると、著者は近衛や内閣の退陣をしきりに主張していたようだ。内閣副総理であること+首相が宮様である以上、内閣の評判の悪さが近衛の評判に直結するため。*9

・国内情勢の悪化(生産食料住宅失業といった諸問題)

天皇マッカーサーの会見問題(近衛は特に主導していないが、内閣の副総理ポジションである以上批判は必至)

・内閣の失政(首相と外人記者の会見が特に指弾されている)

 

9月末に著者は軽井沢へ行き、次男の発熱を理由に2週間ほど東京に戻らない。その間の10月5日に、GHQからの内相や全国警視総監の罷免要求に屈して東久邇宮内閣は退陣した。ここで面白い話として、当日近衛はマッカーサーと会見して憲法改正に当たるように依頼されている。この会見中にひとことも内相罷免要求は語られなかったようだ。最初は米軍に好印象だった著者も、このあたりからGHQにキレ始める。

 

幣原内閣期と近衛の最期

後継内閣について、木戸内府は最初近衛を推したものの近衛が気乗りしないことを察して吉田外相or幣原路線に切り替えた。近衛は小畑の説得を受けてやる気が出たものの、吉田茂閣議で捕まらず。そうもたもたしているうちに幣原に決まってしまったとのこと。*10

近衛の憲法改正草案の作成に伴い、著者は佐々木惣一博士に協力を依頼、連絡を取り持つなどしている。ただし、それ以上に深くかかわっている形跡はなく、むしろ頻繁に軽井沢に出向いている。なんか近衛と距離置いてる印象があるんだよな。

昭和20年11月に近衛と話した際、近衛は昨今の情勢が急速に共産主義化している、マッカーサー司令部は皇室を廃しても構わないと思っているなどと所感を述べる。著者に政治的進退を質問されると、「僕自身はどうでもよい。お役に立てば、敢えて批難攻撃も恐れない」との意味を語る。ここだけ取ると勇ましいセリフなのだが、著者によると「出馬の意は二分なり」*11とのこと。

このころ近衛に対する新聞からの攻撃に加え、戦略爆撃調査団*12から近衛・木戸・広田・野村大使ら開戦の決定に至った9月6日の御前会議について聴取されるなど。周辺がきな臭くなっていく中で、著者としては近衛はいったん退いて期を待っていてほしかったようだ*13

昭和20年12月16日に近衛は自害してしまうが……逮捕令~自害までの期間、著者は八代にいてまたも不在。もちろん逮捕令が出たことは知っていたが、近衛は自害せず入獄するものだと思っていたとのこと。*14

近衛の最期についてはすべて伝聞情報だが、前日に近衛が自害することを次男通隆以下心配し、どこかに毒を隠していないか探し回ったものの発見がかなわなかったとのこと。夫人のみは近衛のやることに反対していなかったらしいが。

 

近衛死後とあとがき

この後、日記の文章量はさらに減る。著者は政界へ進出せず、日記が不要になってしまった。昭和21年2月時点で記載されている政界に進出しない理由は下記。*15

① 体がついていかない

② もちろん政治への情熱が芽生えることも、筆を執って邪説を挫こうと思うときもある。しかし、「達観」の気持ちがそのたびに勝ってしまう

昭和21年8月時点では少し変わった理由も書いてある。*16

A 性格が適さない

B 日本は誰が政治家になっても50年は独立を回復しない。この状況は正しき愛国者を抹殺する

C たとえ上記の運命であっても、云うべきことはいい、闘うべきは戦えというのは正論だが、自分の力と余の潮流を考えると運命は変えられない

D だから静かに、安心して余生を過ごす道を選ぶ

 

近衛の次男である通隆に「(著者は)実際は極めて感情の強い人」「感情が強いから、是を抑へる為に強力な理性を必要とする」との指摘を受ける。近衛は逆に「極めて理性的に物を考へるから、却って自分自身を打算的に感じて、何とか感情的に行動してみたいと云う気持ちを起す。」といった「本質的に異ふ」性格だと評される。*17

 

 

雑記

近衛上奏文

昭和20年2月。有名な近衛上奏文の全文も乗っている。要約すれば「このまま戦争を続けていれば共産革命が起きてしまう。陸軍内部の共産分子を粛清して速やかに和平すべき。」という内容。ただ、この上奏を受けての天皇の質問が以下3点。

①梅津によると、英米は皇室を抹殺しようとしているとのこと。自分は疑問だ。

②軍は敵を台湾沖に誘導すれば打撃を与えられるといっている。どう思う?

③粛軍は誰にやらせればよいか?

③以外微妙にずれてるんだよな……。

 

高松宮ブチギレ

高松宮に伺候した著者に対して、高松宮重臣にブチギレる。(P352)

・お前ら木戸内大臣を辞めさせる、木戸が辞めたらすぐ和平できるというけどプランがないよね?

・(体制の大転換がプランだと反論する著者に対して)軍をどうするか、産業をどうするかなど具体的な案がないよね?木戸を辞めさせて近衛だ岡田だというけど、こいつらに何ができるの?

・(プランがあったら陸軍に漏れて失敗してしまうと反論する著者に対して)漏れることを恐れて何もしないのが駄目だ。重臣が自由に陛下に上奏できないっていうけどそもそも上奏しようとしないよね?仮に陛下から召されても普段偉そうな口ぶりとは正反対になにも言わないよね?そんなんじゃ陛下も、再び召そうとは思わないよ?

・陸軍が本土決戦しようとしているが、その前に機会をとらえて和平するべきなのが政治家なのになにもしない。どうせ何もしなくても"最後の状態"になるんだからと安心しているんだろう。

 

著者は反論したい気持ちもあったが一方的に畳みかけられて反論できなかったとのこと。本文では重臣たちの勇気のなさ、信念のなさを毒づいている。

たぶんこれ、細川に対してももっと近衛を動かせと言われているようなことだと思うのだが、他人の悪口を言われた気分なのだろうか……。

 

全体の感想

なんとなく読んでいると批判的な気持ちになってしまうのだが、それでも当時あったことを記録し刊行したことは大いに感謝したい。あとがきにもあるとおり、自由ではない戦争中という時代の中で、考えが偏ったり敵視すべき人ではない人を敵視してしまうのはやむをえないだろう。

 

東条内閣を倒閣し和平をするという行動は後世からみると真っ当であるが、そのやり方はイマイチだなあという感想。

自分たちは矢面に立たずに"○○にやらせよう""宮様はどうだ?"と策謀を巡らすばかりで、先頭にたって行動しないし、候補者と積極的に交渉しなかった結果、東条内閣の打倒も遅れ、小磯内閣には影響力を及ぼせず終戦が遅れてしまったと思える。

高松宮にブチギレられた通り、"転換というばかりでプランがない""積極的に行動しろ"というのは的を射ていたのだろう、というか当時の人にもそういわれていたのか……。

また近衛上奏文に代表される"共産主義の浸透"の認識は後世からみると完全に誤りであるし、粛軍を目指すにあたってとっくに引退し、軍内に影響力のない皇道派に頼ったのもよくなかったであろう。陸軍のツテをもっと広く求めていれば影響力も変わったのかもしれない。例えば"次期首相を目指している"として嫌悪していた梅津や阿南といった現実に影響力のある高官ともっと早期に交流していれば、あるいは戦争終結はもっとスムーズであったかもしれない。

 

著者の細川も近衛に対してつくづく優柔不断だとか毒づいていたが、彼自身も情勢が固まらないと具体的な進言をせず、結果として彼の思い通りにはならないことが多かったように思える。

 

もちろん各々事情はあったのだろうが、先手先手は大事だということか。

*1:P343

*2:P338

*3:P395

*4:P402

*5:P430・P437

*6:P437

*7:P436

*8:P439~P400

*9:P443

*10:P447

*11:P455

*12:これってGHQは関係ないんだね、知らなかった

*13:P457

*14:P462

*15:P468

*16:P484

*17:P471