西浦進『昭和陸軍秘録: 軍務局軍事課長の幻の証言』 メモ後半

続き。しかし興味深い話が多いので、全部メモっていると時間ばかりかかる。

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4忍び寄る総力戦 三国同盟・対支工作・南進論

戦争が始まるまでを引き続き。昭和14年3月に西浦は軍事課高級課員になったので、いよいよ中枢にかかわってくる。

P212 三国同盟、ドイツ

防共協定強化~三国同盟への道のりについて、独ソ不可侵でお流れになった後、実際に三国同盟ができるまでは陸軍のタッチは薄かったはずとのこと。軍務局長の武藤章が直前になって知ったと言っていたとか。

陸軍内にはドイツ支持者が多かったが、西浦はフランスにいたこともありどちらかというと批判的だった由。陸軍全体がヒトラーばかり見て、ドイツ軍部というのともっと接触を取るべきだったと。

ドイツと結びたがったのはやっぱり対ソ連。加えて、これを英米の牽制だとか支那事変解決に使いたいとか個々人が考えていたとのこと。

 

P219~など 仮想敵国との戦争計画

昭和14年くらいだと、ソ連やイギリスなどと戦う具体的な戦争計画が陸軍内になかったとのこと。マレーの地図すらないとか。*1

さらに、対米計画なんてはもっとなかったとか。

 

P223 板垣陸相天皇に叱られたという話について

なにか天津問題*2の時に、「お前のような馬鹿な大臣は……」と言われたということですが。

そこまでは言われていないと思うのですよ。(笑い)。だんだん尾ひれがついて世間ではどうも(笑い)

 

 

P225 阿部内閣

・陸軍全体は安倍内閣に対して消極的

・阿部は「荒木や真崎みたいな政治色がない」「事務局長*3や次官、陸軍大臣代理をやっていたので政治や行政に慣れている」

・それでもなんでプッシュされたのか西浦は良く知らないらしい。阿部と親族であった稲田正純、軍務課長有末精三、内閣書記官長となった遠藤柳作あたりが推したと思っているらしい。

 

P226~ 汪兆銘工作、桐工作

昭和14年末くらいにはもうどうにか支那事変を早期に解決させられないかという雰囲気だったらしい。

・ただし、西浦や堀場ら高級課員や主任級が集まって会議するときには汪兆銘をなんとか……ではなく蒋介石との直接交渉を志向していた。この時の対蒋交渉を桐工作と呼ぶ。昭和14年の晩夏ごろ開始。

・西浦は同期の石井秋穂と手を組んで、汪兆銘工作の引き延ばしを図った。汪兆銘は和平の暁には重慶と合流すると言っているが、信用できないと。汪兆銘が立つと和平が困難になるので、引き伸ばしているうちに桐工作を成功させようとした。汪兆銘工作関連の会議にでたらとにかくケチをつけて遅延を図り、かなり文句を言われたとのこと。

・桐工作が上手くいかなかった間接的な要因は彼我の不信感。板垣総参謀長が長沙当たりで張群と会談するという話があっても、何かあったらまずいからと行えなかったと。

・直接的な要因は満州国承認問題。先述の板垣総参謀長が大変こだわっていた点らしい。西浦はとにかく無条件停戦したほうが良いと思っていたらしい。 P233

・他にも多方面で和平工作が進んでいたが、軍の主流がいちばんやる気になっていたのが桐工作で、他は信用していなかったとのこと。

・桐工作を信用していた理由。

①工作を行った鈴木卓爾への信頼。*4

②軍の主流派に和平の機運が高まり、結束していたこと。

・東条は次官のころまでは対支強硬論だった。蒋介石の下野も主張していた。しかし、大臣になるころには和平工作に熱心であった。

 

P228~ トラウトマン工作打ち切り時の参謀本部

・作戦上の困難が杉山陸相はじめ上層部に伝わっていなかった。

参謀本部が折れた理由。多田次長をはじめとした参謀本部首脳陣が集まって相談したが、結局内閣を潰すことのほうが事変遂行にマイナスになると判断したとのこと。また、陸軍は宇垣流産の際に世間からもお上のお覚えも大変悪くなっているので、内閣総辞職となってこれ以上追及されることは避けたかったとも。作戦上の困難を指摘していながら、結局政治的な体面を重視して戦争継続を択んだことは大きな失策だとしている。

 

P253~ 陸軍省職員の肩書や給与の出どころなど

・陸軍中央の人はかなりの肩書を持っていたとのこと。

・西浦の一時期の肩書。技術本部付兼陸軍省軍務局課員兼参謀本部部員。

●技術本部付→給料の出どころが本省費ではなく、軍事費から出ているということ。本省費で賄えない分を軍事費から出すため技術本部付扱いというだけで、技術本部に行くことはない。結構な人数いたらしい。

陸軍省軍務局課員→本業

参謀本部部員→軍事課で1人だけ参謀本部と兼任するルールがあったらしい。陸軍省職員なのでそんな状態で参謀本部とやりあうことになると。

参謀本部部員が海軍の軍令部と肩書上は兼任するしていたらしい。(逆も然り。)作戦課は向こうの作戦課と兼任するなど。実態は飲み会に出席する程度とのこと。

 

P253~ 用ない司令官、用ない参謀

要塞司令官、要塞参謀をもじったもの。東京湾や下関など大きな要塞には参謀が付いたらしいが、かなりの閑職だったらしい。

 

P258~ 中国からの撤兵問題

・西浦は予算の面からも支那事変をおさめたかったので、予算を削っていくことで停戦へ向かうように締め上げた。関東軍の軍備充実も要求されていたので、中国で作戦を続けたいなら関東軍の予算を削るぞ、関東軍を充実させるなら中国の予算を削るぞといった具合。参謀本部は関東を重視したいので、中国の兵力削減に乗り気で計画を進めていった。

・しかし、支那派遣軍は当然反対する。じゃあ関東軍の予算を削れるかと言ったらそうもならず、結局半々くらいで妥協したらしい。それは結局支那事変解決に役立っていないのでは……?

・『大本営機密日誌』に、昭和15年3月30日付けで撤兵について話し合いがもたれたと書いてあるとのこと。畑陸軍大臣閑院宮総長も出席していたとのこと(未確認)。決まった案として、昭和16年から撤兵開始。18年には上海南京周辺だけにすると。しかし、西浦はそんな案が決まったことはないはずだと主張。

 

P262~ 戦争計画

・「対南方戦争計画」という大それた文章を昭和15年夏ごろ書いたが、単なるたたき台で戦争するにしても蘭印の石油をドイツやイギリスに先んじて取得することが目標だった。

参謀本部で具体的に検討が進められるうち、イギリスとも戦うことになっていった。ただし、陸軍としてはあくまで英米可分だった。

・海軍と話し合うと、海軍はかたくなに英米不可分論だった。海軍がこだわるなら……ということで、英米不可分で検討を進めることになった。

・P284~。陸軍の英米可分論の前提はドイツによるイギリスの敗北だった。蘭印の石油が第一で、アメリカと戦ってまで石油を得るなど考えられなかった。

・海軍としては、南方進出中に東からアメリカに叩かれたらどうにもならなくなる。だから、南方進出にはアメリカとの戦争も必須なのだという理屈だった。

 

P275~ 畑陸相は冷たい

・畑陸相陸相の中でいちばん聡明な人だった。

・聡明で先を見通せる人だったので、下の者たちがワイワイ騒いでいる(原文ママ)中においても神輿や旗振り役になることはなく、「どうせこの結論に落ち着くだろう」という結論で待っているような人だった。その点若い人には人気がなかった。

・西浦がフランスを手本に、軍官民が入り混じった総力戦研究所設立を計画したことがあった。西浦はかなり熱を入れて取り組んでいたようだ。しかし、畑陸相に説明申し上げると「うん、君、出来るものならやりたまえ」「海軍や大蔵省とよく話をしておけよ」といった冷淡な反応であったとのこと。反対でもないが、先頭に立って進める人でもなかった。

・板垣陸相などは真逆で、「親父はあまりわかっていない。俺たちが親父を助けるんだ。」といった神輿として人気はあったとのこと。

 

5開戦の舞台裏 東条首相に使えて

P286~ 北部仏印進駐

陸軍省軍事課が同意したのは、昭和14年~の南寧作戦で中国の南端に進出した部隊が退却に困っている……だから北部仏印から退却させたいんだという話を参謀本部から聞かされ、まあ穏健な方法ならばよいかと同意したらしい。参謀本部から嵌められたとも。

・北部仏印進駐で困ると思われていたのが外貨であるピアストル。外貨がそもそも足りていないのに1万人近くの外貨足りない!となったらしい。結局現地政府に出させることで解決したとのこと。

・北部仏印進駐したときに南部仏印進駐まで考えていたわけではないだろうということ。第一の目的は援蒋ルートの遮断だとのこと。

 

P298~ 戦争への雰囲気

昭和15年くらいまでは、戦争計画といっても学問上の話で実感がなかった。

しかし、昭和15年末ごろから実際の準備が始まっていった。軍票、防暑衣など。

・そうなると、「準備しているからには始まるのかな~」といった黒い霧のような雰囲気が漂い始めたらしい。

・西浦は大佐に昇進したこともあり、はやくどこか連隊長にでもなって中央から離れたいな、自分が軍事課にいるうちに戦争が始まってほしくないと思っていたらしい。

 

P307~ ノモンハン

・最初23師団の1個師団で外蒙軍をたたきたいと関東軍からきて、参謀本部は最初から認可する方針だった。後でも出てくるが、統帥事項は参謀本部にあるといっても陸軍大臣への相談と許可が下りなければならなかったらしい。

西浦と上司の岩畔課長は日ソ全面戦争の危険もあり、説明する参謀本部の稲田に対して反論していた。しかし、板垣陸相の「まあいいじゃないか」の一言で議論は決して派兵が決まった。

・大命と大陸指に基づく参謀総長の指示を出す際は必ず陸軍省側に協議をしていた。明文でなにか規定があるわけではない。陸軍省側で作戦そのものに不同意な場合、政府の政策に反する場合、金や物の観点から支えられない場合は拒否することとなった。参謀本部だけでなにかを行うことはできないようになっていた。

・苦戦の理由は情報不足で、特に後方輸送能力を甘く見ていた。戦場の情報も誤算をしていた。

・苦戦していたも関東軍は強気に戦闘継続を主張していた。しかし、参謀本部が大命を奉じて関東軍の行動を止めさせた。西浦としては、軽率に関東軍にGOサインを出したのがおかしいとのこと。

 

P321~ 日米交渉

・岩畔が責任者として交渉していたが、昭和16年4月18日の時点でハル・ノートの四原則を東京側に隠していた。岩畔が政治家でもあり、そんな話をしたら陸軍側が通さないと思ったからではないかと推測している。

ハル・ノート満州からの撤兵も含んでいるというのが陸軍としての共通認識で、議論もあまりなかったとのこと。

 

P325~ 独ソ開戦

・6月の上旬には陸軍省にも入ってきていたとのこと。ドイツにいた西郷従吾やリッペンドロップあたりの態度から。

陸軍省の態度は6/8に秘密会談で決定したとのこと。情勢の進展を見守る方針。ドイツは進撃するだろうが、やがて行き詰るとの見方だったらしい。

参謀本部はやはり北進を強く主張し、そのときは参謀本部が勝つ形で関東軍の動員、関特演が行われた。真田軍事課長が上奏取り消し忘れなどで攻撃されて足元を掬われたらしい。

・西浦は陸軍省側なので熟柿主義。ソ連が崩壊し、日本が攻撃してもまともに反撃してこないくらいまでになったら攻めてもよいと考えていたとのこと。

・8月上旬までに攻撃を決めないとスケジュール的にも当年の作戦行動が不可能となっていた。ソ連があまり満洲正面から軍を西にもっていかないので攻撃の決心ができず攻撃は取りやめになったとのこと。

・西浦は当年中の北進がなくなった段階で痔の療養で入院したらしい。

 

P329~ 南部仏印進駐

・南部仏印進駐は西浦として反対はしなかったらしい。南方進出、特にマレーやシンガポールを初手で攻撃するにはあそこに飛行場が不可欠であったため。軍事的に必要だった。

・資金凍結や石油凍結はあまり予想できていなかったとのこと。

・軍隊は「ジリ貧論」に非常に脆弱だったとのこと。軍隊はもちろん私生活に至るまで先の計画をキッチリ立てて行動するように軍人は頭が作られているから、「少しずつ油が減っていくがいずれ状況が好転するだろう」なんてことは論外であった。西浦としては年を取って考えてみると、そういう生き方もありだなと思っているとのこと。

流石に国家の事態を「いずれ好転するだろう」みたいな考え方は通らないだろうなあ。

 

P342~ 東条内閣

・西浦は転任で内モンゴルあたりの連隊長になるんだ!と思っていたそうだが、東条内閣にあたって陸軍大臣秘書官となった。その前の陸相から、西浦に秘書官になってほしいという話はあったらしいが断っていたとのこと。ところが、今回はあれよあれよと秘書官が決まってしまったとのこと。ずっと役人みたいなことをやっていたが、連隊長や師団長になりたかったらしい。

・東条が総理大臣になったのは陸軍大臣を兼任するから。これは宮中の方で決まっていたのではないかと西浦は推測している。

・東条と上司と部下としてかかわるようになったのは東条が陸軍大臣になってから。目をかけられていたらしい。西浦が選ばれた理由として、総理大臣もやるから陸軍省の仕事に精通している人が欲しかったのではないかと推測。

・総理大臣秘書官と陸軍大臣秘書官は別の人だったらしい。厳密に仕事が分割されていたわけでないらしい。

・秘書官とはイメージ通り付き人というか、東条のために参謀本部から情報を聞いたりとか、無数にくる電報の仕分けだとか、ひどいものは宴会の手配とか。東条は誤読が多かったので、読み方が難しい演説原稿のフリガナを振ったりと。ただし、かなり機密に近い内容も聞いていることが求められていたとも。

・東条は部下に温情、人情があったとのこと。精励恪勤で、お上への忠誠は無比だったとの評。一方で仕事に不誠実な者、出しゃばったような仕事をするような奴らは相当嫌っていたらしい。

・東条は陸軍大臣になって以降、陸軍内や外ともバランスがとれた折衷案を出すことが多かったとのこと。

 

6見通しなき戦い ―軍事課長時代

P354~ 武藤軍事局長左遷、東条派の人々

・武藤が左遷された理由はいくつか推測されているが、決して東条が嫌って左遷したわけではないと思っているとのこと。東条にとって武藤は頼れる部下だったはず。

・東条の腹心であった富永と武藤の仲が悪かったという噂。なにより、武藤は傍若無人で上の人にも傲岸不遜、人を馬鹿にしたようなところがあったとのこと。一方で、西浦は仕事がしやすい軍務局長であったとも。

・東条が信頼していたのは武藤、富永、佐藤賢了、田中新一あたりも信用されていたのとか。武藤は堅実、佐藤賢了は派手な仕事ぶりだったとか。

・この時代には東条派に反対する派閥みたいなのは目立たなかったとのこと。

木村兵太郎次官は地味だったと。そもそも陸軍次官というのが地味な仕事で、留守番が大半。外回りの派手な仕事は大臣と軍務局長のお仕事らしい。

・武藤は支那事変勃発時は積極論者であったが、軍務局長に戻ってきたころには講和論者で日米開戦にも批判的だったと。

・田中隆吉は「怪物」だった。能力はあるし漫談のように話すから人気になる。ただし、他の人とは合わずボロクソに言っていたとか。ある種の空襲恐怖症になって兵器局長を辞任したらしい。

 

P371~ 戦争指導

・南方進出後勢力圏を守るとなると、700万人の兵隊を必要とした。日本人男子だけで補うには8年くらい兵役に就かせる必要がある。そこで、インドネシアなどで現地人を採用する兵補を採用していた。

・船舶問題は最初から頭痛のタネだった。陸海軍両方とも民間船舶の徴用していたが、民間だって船がないと生産がおぼつかない。また、バレンバンなど南方の石油は確保できたが、連合艦隊がタンカーを重用しているので運ぶ手段がなかった。

・戦闘機は一式戦の数がなかなか満たないし、一式戦以降の戦闘機計画は良い戦闘機が続かなかった。何よりパイロットの数が足りず、1人の教官あたりが育成できる候補整数を大幅に超えて育てさせたので、航空本部からめちゃくちゃ嫌味を言われたとか。

西浦の主張だと、一般に言われるように航空機優先主義に転換するのが遅かったことはない。民間がいうほどポヤポヤしてなかったとのこと。

核兵器の存在は陸軍内でも常識だった。広島に落ちたものが原爆だとすぐ気が付いたとのこと。日本でも研究は行われていたが、結局実現するには途方もない努力が必要な核兵器よりもすぐ必要なものが優先されたとのこと。ただし、戦後仁科芳雄に話を聞くと、いくら核兵器開発を優先していたところで完成には至らなかったとも。

 

P385~ ミッドウェイ海戦と陸軍

・西浦としては、ミッドウェイ海戦が開戦しそうだという話を聞いてうれしかったとのこと。もともと勝ち目のない戦争だと思っていたので、決戦が行われず抑え込まれ続けて負けるのが嫌だったとのこと。また、海軍の連戦連勝で戦えば何とかなると思っていたらしい。

陸軍省で敗北の詳細を知らされたのは陸軍大臣、陸軍次官、軍務局長、軍事課長のみ。東条、木村、佐藤、西浦かな?他には伏せられたらしい。参謀本部でも海軍から直接知らされた作戦課の参謀以外は知らなかったのではないかと推測している。

 

P392~ ガダルカナル後戦局悪化

・陸軍としてはだんだん後退しつつ、作戦準備を整えようとしたが海軍はトラック島という前線基地を持っておきたい。そのためにはソロモン諸島など一帯を保持している必要があるとの主張だった。

・なんで開戦後勝っている段階で和平をしないんだという意見がインタビュー当時あったが、始まってしまって一気に和平など無理だと否定している。

 

P396~ 東条による参謀総長兼任問題

参謀総長兼任は東条がいきなりやったことで、軍事課長だった西浦も知らなかった。なのに西浦のせいにされたりしてたと。西浦としては最初兼任と聞いて、陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長を兼任するとかして陸海軍の調整をしてくれるのかと思ってたら予想外だったと。

・直截なきっかけはマリアナ諸島への船舶増徴相談だった。そもそも無理な相談だが、相談前から参謀総長の印鑑が押してあったとのこと。そのことを東条に言ったら、今はいったん帰れと言われて、次の日には東条が参謀総長を兼任になったとのこと。

杉山元が気に入らないなら第三者を立てろとの声もあったが、西浦としてはあんなに劣勢になったうえでも責任を引き受けるという東条の覚悟とみたと。それに、東条が兼任した方が仕事が格段にやりやすくなったとも。

インパール作戦については東条はかなり慎重派だった。むしろ参謀次長が弱気な意見を言うと𠮟りつけるような態度を取り、作戦中止を遅らせたのが悪いとも。

 

P410~ 東条内閣総辞職と小磯内閣、支那派遣軍への転任

重臣の陰謀だと佐藤賢了などは怒っていたが、詳細は西浦も不明とのこと。

・東条が陸軍大臣として残る話は半日~1日程度で消えてなくなった。参謀総長となる梅津によって消されたという。梅津は東条にとって上官であるし、「梅津はいい意味で冷たい」とのこと。

・小磯については、古い人過ぎて陸軍内部で支えようという機運はなかったとのこと。東条は陸軍の総意で総理大臣になった人だが、小磯は「どこからか現れた人」扱いだったらしい。また、小磯が現役復帰して陸軍大臣などを兼ねるというのはあり得なかったとも。東条時代に果たされた国務と統帥の統一は東条がさっと決めてしまったことで、陸軍としての総意でもなかった。だから次代の小磯内閣に引き継がれるわけがなかった。

・西浦は昭和19年の12月に支那派遣軍参謀となった。佐藤賢了らも中央からいなくなったことから、東条派一掃に巻き込まれたと本人は思っている。本人としては戦局が悪い上に名古屋の大地震などで重苦しい中央を離れて上海に行ったことを結構よく思っていたとのこと。

 

読み終わった感想と課題

・途中にも書いたが、陸軍組織について常識といえる部分も丁寧に解説してくれるので読みにくさはなかった。同時代人からの人物評や時勢評がうかがえ、軍人たちひとりひとりの個性も垣間見えてよい。

・もちろん西浦の話を全てそのまま受け取っていいわけではない。聞き取りが行われたのは終戦後22,3年たったころ。記憶の風化があるだろう。本文中にもなんどか出てきたが、西浦本人が当時感じたことなのか、あとから他人や戦史室での仕事を通じて入ってきた情報なのかわからなくなっている部分があるのとのこと。

・気になったのが桐工作の部分。これ日本語版Wikipediaも独自の項が建てられていないのだが、秦郁彦日中戦争史』P157にもあるかなり重視された工作だったとのこと。『アジア・太平洋戦争辞典』の桐工作項だと、支那派遣軍が主体となって進めたと記載があるが、西浦はあたかも中央が発起したような口ぶりである。「省部を挙げて桐工作を推進した」(P233)とまで言っている。おそらく本工作に一番詳しいであろうし、『アジア・太平洋戦争辞典』の出典にもなっている今井武夫の回想録を読んでみなくてはと思った。

*1:ただ、これは西浦が陸軍省の人間で参謀本部の人間でないことが影響していないか?と思ってしまった。もちろん西浦は戦後も陸軍の人間と親交をもったり、戦史室に出入りしているのでちゃんとそのへんつかんだうえでの発言と思うが。

*2:天津租界封鎖事件のこと

*3:原文ママ。なんの事務局長……?たぶん軍務局長のことだと思われる

*4:ほかの和平ブローカーはほら吹きが多かったが、鈴木は極めて温厚で誠実だったとのこと。ちなみに、彼の名前は調べても同姓同名の映画監督ばかり出てくるので詳細が分かっていない。