図書館で借りた本だがなかなか面白い。印象に残った部分だけって思ってたらめちゃくちゃ長くなったので前半でいったん締める。
本書はインタビュー形式なので時系列は前後したりする。
1昭和陸軍と素顔 将校たちと社会
P11 西田税評
頭のいいことはやっぱり優秀だったわけですね。だけれどもやっぱり優等生タイプじゃないですね。やっぱり子供のころからああいうことが好きなんですよ。しかし人には、親切です。友達には非常に親切ですね。それから、やっぱりああいう風な一派の首領になる素質があるんじゃないですか。
P27 幼年学校出身者と中学出身者による士官学校の確執はどうだったか?という質問に対して
自分たちが入る数年前まではあったらしいが、自分のころはなかったとのこと。
P52 陸軍省に入った直後
陸軍省に入った直後は「半玉」と呼ばれ見習い扱いだったとのこと。肩書も連帯隊付or中隊長のままらしい。仕事だけは一人前にやらせていたそうだが。
「半玉」は芸能の用語からきている。
P52~ 陸軍省軍務局軍務課予算班のお仕事
職掌
陸軍予算全般の統制+演習費と機密費を司る。陸軍予算全般は本来経理局のお仕事だが、運用は予算班が判断していたとのこと。
――経理局は予算班の執行機関みたいなものですね。
言っちゃ悪いですが、そういうことになります。
P64
ただその後読んでいくと、予算班の権力が大きかったといいつつも、部内にも部外にも陸軍次官の統制が大きかったみたいだ。
軍務局長の機密費というのは、さらに次官から貰うわけです。局長用というものがあるわけではないのです。 P60
陸軍予算全般の統制
予算編成を司る。参謀本部や関東軍をはじめ、各方面から集まった「こんくらいほしい」と戦って圧縮していく。陸軍の予算を決めたら、今度は大蔵省に呑んでもらうために説明等するとのこと。
機密費
個々の工作でどんくらい使うかまでは決めない。次官にいくら、参謀本部にいくら、関東軍にいくらという風に大雑把な配当を決める。配当を決めるときはやっぱり参謀本部の人間たちとすったもんだあるとのこと。
かなり具体的な「やりたい謀略の内容」を予算班に話してお金をもらおうとするとのこと。おかげで西浦は話を聞いただけでだいたいうまくいくか行かないか分かったとか。
もちろん出せ出さないの応酬になるらしい。上から言われたものはしょうがないがとのこと。
P57~ 予算班への権力集中
陸軍省内で軍務局/軍事課が力を持っていたのは予算を握っていたから。田中新一が軍事課長になった時、予算の事件を他の課に譲ろうとしたので、「あなたが権力をもっているのは軍事課が金を握っているからだよ」といって止めたとのこと。
P59~60 陸軍次官梅津美治郎の評価
「外部の政治ゴロ」との折衝は予算班ではなく陸軍次官の仕事。「古来昔からのダニがいる」とのこと。
これを梅津さんが次官当時に、梅津さんという人は非常に理性的な人なものですから、これをかなりけずったのです。これが梅津さんの評判が悪くなった有力な原因なんです。部外から、このために評判が悪くなりました。
(中略)
その点では梅津さんは正しい人ではないかと思います。
それと、部内では参謀本部あたりに、梅津さんという人は大変固い人ですから、煽てたってあまり煽てに乗らない人ですから、部内でもあまりそういういみでは良くなかった。
P68 永田軍事課長と山下軍事課長評
永田さんは部下に対して非常に暖かいですね。山下さんの方はむしろ非常に理性的なように思います。おそらく皆さんの感じは違うのじゃないかと思います。山下さんもえらいので、私は、山下さんが駄目だというのではないですけれども。
永田さんだったら自分のすべての欠点を打ち明けてもなんでも相談出来るが、山下さんはちょっとこわいなというところもありましたね。
それから、山下さんの方がずっと細かいです。
2揺れる陸軍省 荒木陸相への期待と失望
前半は荒木を含めた陸軍省の動き。後半は西浦自身が外遊にでた中国、フランス、スペイン内戦のエピソードが語られる。
P85 荒木へ何を期待したか?
西浦個人:陸軍大学校の荒木校長に魅力を感じていた94
陸軍全体:政党の腐敗、軍に対する圧迫。軍内におけるいざこざ、問題を解決してくれるだろうといった漠然とした期待。
P90 五・一五事件に対する陸軍の反応
事件当日は慌てたが、大してお話しするようなタネはないとのこと。ウブな士官学校生を海軍がたぶらかした or よくやった、など。まちまち。
P94 荒木への失望
人事への失望
人事がなんというか非常に荒木人事をやる。(中略)荒木さんを非常にきれいだとおもっておったところが、政治家になってみると、えらい政治的野心があるように見える。 P94
要するに宇垣さん時代に重用された人が落とされて、その反対だった人が浮かび上がった。
・柳川が次官だったころ、「宇垣が作った規則などすべて変えてしまえ!」などと言っていたこと。
予算獲得への失望
自分が第一部長の時に軍備が不足するといってあれほど大見栄を切ったんだから、大臣になったら自分が先頭に立って内閣を潰したってやればいいじゃないか、それが大臣になってみると、えらい丸いことばかり言っているじゃないか。 P94~95
獲得能力というより、獲得したものを自分で大いに……私どもから言うと邪推もあるんですよ、邪推もあるんですが……自分の政治的信望というか、声望をあげるために軍の装備を犠牲にするんじゃないか、というふうな感じ。P100
P106~ 「青年将校」に対する反感
政治活動に勤しむ青年将校への反感が数ページにわたって書かれている。皇道派であれ統制派*1であれ隊務を真面目にやらないでそんなことばっかりしている連中というのを軽蔑していたとのこと。
P114~中国駐在武官の話
当時中国各地にいた武官がそろって打倒国民党。親国民党は北京にいた柴山兼四郎。
中国外遊にいった武官*2も各地で憲兵らにいじめられる→大都市に着いて彼らと話すせいでますます打倒国民党に流れるとのこと。
P117~中国共産党認識
当時の陸軍では一応共産党研究をやってはいたが、身近な敵として考えていなかったとのこと。数ページにわたっていかに認識が甘かったか、中国の赤化と口では言いながら研究、施策を怠っていたことが記載されている。
昭和十五年の百団大戦で衝撃を受け、北支那方面軍は主敵を重慶→共産党に切り替えた。そこから昭和十八年くらいまでは岡村寧次の下うまく封じ込めを行えた。しかし、京漢作戦→湘桂作戦に太平洋への引き抜きでガタガタになったと。
P125~中国の不良日本人
北京、天津、済南あたりで阿片の密売をやっておる日本人が非常に多い。
軍属だと称して好き勝手やるなど。日中親善の邪魔になっている認識だったらしい。
P128~フランス行き、スペイン内戦
・ラインラント進駐時にフランスの砲兵学校に入っていた。フランスが抵抗するならば学校の連中も原隊に帰って準備するはずだが、誰も原隊に帰らない=フランスは抵抗しないと見抜いたという話。当時のフランスには動員計画が0か100しかなかったため、動員することに非常な抵抗があったとも。
このへんは私の興味範囲外なのだが、スペイン内戦に観戦武官として行ったとのこと。ほんと最前線をめちゃくちゃ視察しているのだが、観戦武官ってそんな自由に行動できたんか。
3動乱期の巨大組織 永田事件、二・二六事件
ヨーロッパで知った永田事件、二・二六および日本帰国後の盧溝橋事件あたりまで。
P142~ 海外で大事件を知る
・海外新聞にもやはり大きく取り上げられていたようだ。もちろん正確だったわけではなく、ずいぶんデマも含まれていたらしい。二・二六当初は反乱軍が政権を取ってしまい、自分はクビになるかもという不安があったとのこと。
P149~ 陸軍三長官同意の意味
本書は基礎知識のある人向けかと思いきや、インタビュアーが上手いのか西浦が丁寧なのかどっちもか、当時問題になっていたことについて詳しく解説してくれる。
話の発端は「なぜ教育総監という一見人事に関係なさそうな真崎が陸軍内部の人事に反対できたのか」
・大正二年の省部担任規定による。この規定ができた理由は、文官、政党人が陸軍大臣になる日が来るかもしれない→陸軍省や陸軍大臣の権限を参謀本部その他に持っていく必要があったため。
・陸軍内部の規定で、陸軍大臣、参謀総長、教育総監の相互職責を定めたもの。
・省部担任規定の中に、将官の人事については前述の三長官が協議をして定める。次長や次官に任せることもある。
・真崎が教育総監として同意しなかった場合、自分らでは解決ができないのでお上(天皇)に上奏してご決済を得るほかない。
・陸軍省側の人間である西浦としては結構腹立たしかったらしい。
・将官以外の人事権も複雑。二・二六以前は表向きが陸軍省人事局。しかし、参謀人事は参謀本部庶務課が務めるので、そこは要相談となる。参謀といっても幅広く、陸軍大学校を出た=参謀要員扱いで異動については陸軍省と参謀本部の協議となった。さらに歩兵以外については教育総監部の各兵監部が影響力を持つとのこと。
西浦は砲兵科の出身なので以下の人たちが影響するらしい。
・砲兵だから教育総監部砲兵監部
・参謀要員だから参謀本部庶務課
・本来の陸軍省人事局
二・二六後に表向きは廃止されたが、結局影響は残ったらしい。
P152~ 軍事参議官
戦時の師団長、軍司令官候補。平時は閑職で、歩兵操典などの改正時とかに説明を受けてOKを出す程度とのこと。
P160~ 随時 石原莞爾
・石原が一時勢力を持ったのは実力・着想力・なにより満州事変をやったという実績。
これによって中央の若い人たちは「石原ならうまくやってくれる」という期待を抱いたとのこと。
・凋落の理由は「天才的な人でも実務をやっていくと行き詰まりが出てきてしまう」
行き詰っても実務タイプの人が下について補佐をしていればよい。しかし、その実務タイプであった武藤章・田中新一とだんだんウマが合わなくなってきたことにより凋落したとのこと。
・P173あたりに石原の功績として「産業五か年計画」「航空重視」を挙げている。
・同時に欠点として、計画を立てるところまでは良い。しかし、実際に動くことになったら石原が立場ある人を馬鹿にするような態度をとる。だから反感を買って物事がうまく進まない、といった点を挙げている。
・満州事変以降の北支進出に石原は否定的だった。しかし、西浦の考えでは満州だけでは防共なんてさらさら無理で、満州に手を出した時点で蒙疆、北支に進出するのは必然だったとも。
P166~ 軍務局内 軍事課と軍務課の分離
二・二六のあと、巨大組織となっていた軍務局の改変が行われた。
・もともとの徴募課、馬政課など軍事課以外→兵務局として独立
・軍事課を分割。もともとの仕事は大半軍事課が持つ。外と交渉する仕事は軍務課が持つ。
P174~ 林内閣の評価
林が陸大校長時代は尊敬していたが、陸軍大臣や総理になると周辺に右翼浪人がひっついてて評価できなかったらしい。
P175~ 宇垣内閣流産に動いた理由
もちろん一般には軍縮の話が大きかったのだろうが。
・二宮治重、林桂ら明白な宇垣派は軍を辞めていた。
・宇垣は陸軍省にいたときから威張っていたため、当時の部下=流産当時の軍幹部連中に嫌われていた。
P178~ 盧溝橋、日中開戦
いろいろ話しているが、わりかし一般論が多い。印象に残った話のみ。
・杉山陸相が積極的だった。理由は島田農林大臣にけしかけられたから?当時から「婦人の労働を頭に入れておけよ」というくらい、長期戦を覚悟していたの由。
・当時の陸軍省、参謀本部は二九期*3が高級課員、班長クラスだった。よく同期で集まって話していたとのこと。西浦ら後輩は後になってその連中を「出来の悪いB29」と呼んでいたらしい。
・華北の当初作戦停止線であった「保定~独流鎮の線」は破られると当初から危惧していて、田中新一などにも諫言したとのこと。線って言ったって自然地形として目印がないとどこまでも突き進んでしまうということを第一次大戦のフランス戦線研究で学んだらしい。
・想定外なことに、小銃が非常に不足したらしい。理由は「点と線」しか保持していない都合上、後方部隊や野戦病院に至るまで身を守るための小銃を欲しがったから。
・ゲリラ戦への対処が遅れていたのは、自分たちがやられた戦であるシベリア出兵の研究がおろそかになっていたから。
・地図が粗悪で間違いだらけ。後になって地図の粗悪さを嘆く部下に対し、岡村寧次が「軍閥の軍事顧問をしていた時、司令部からかっさらったものだから」といったとか。
・作戦計画は後手後手だった印象らしい。出兵が決まってから計画を立てているような状況とのこと。結局、それまで作戦を練っていた参謀本部作戦課で育った連中ではないやつらが行き当たりばったりで計画したのが悪いとも。
・中国での作戦計画を真面目に研究していないので人によって認識に大差があった=拡大派不拡大派が入り乱れる結果になったという認識。陸軍数個師団を派遣すれば蒋介石が参ってしまうだろ、みたいな考えの人もいれば、いやいや全面戦争になるぞといったふうに陸軍内で認識が統一できていなかった。
・西浦は前述の予算班長なので、予算の話も多い。軍が予算を取ってない状況では工場も生産ラインを増やしてくれない=なんとしてでも予算を先にとる必要があったとのこと。そしてでかい事変に直面した際、どうやって予算をとればいいか誰も知らなかったので苦慮したらしい。結局満州事変などの実績と対ソ戦計画から数字を割り出して、できるだけわかりやすい計画にして予算を獲得したとのこと。結局、予算を取ってしまったら最後、不拡大などは不可能なので責任は痛感したとも。
・事変によって、基礎産業を重視する石原の「五か年計画」は終わってしまったと。事変が始まると基礎産業なんかよりも実物が欲しい。
P208 賀屋興宣と田中新一
賀屋の慰労会で賀屋と田中新一が大喧嘩した。理由は不明だが、お互い気が強いので……とのこと。後に2人そろって蒙疆に行ったときは心配したものだが、お互い仲良しになっていたらしい。
前半終了。後半も同じくらいページ数がある。長いね。