小松重男『旗本の経済学―御庭番川村修富の手留帳』 新潮選書 1991年を読んでいて、本書自体は旗本の生涯や職務が細かいところまで垣間見えて面白かったのだが、出てくる役職の説明が乏しかったり。
そこで、買ったものの本棚で眠っていた『江戸幕府大事典』を引っ張り出し、川村修富が就いた役職を調べた次第。
鳥見組頭
鳥見役職を統括する役職。鳥見とは将軍の鷹狩の場である拳場の支配にあたった役職とある。鷹場環境の維持、家作の見分と許可、鷹場法度に基づく治安維持活動、鷹狩のための御膳所設置などがあったとのこと。
作事下奉行
工事の監督を行うほか、作事奉行に代わって配下の勤務状況などを監督し、作事の材料の用途を支持した役職。建築工事の立ち合い、人足・材木・石などの検分も行う。
作事方は本丸・西丸表(大奥境まで)、城郭の櫓や土手、門、江戸城内堀・外堀の諸門、町奉行所や本所材木蔵などの幕府諸施設、および浅草寺など徳川家所縁の自社の建築について管轄した。
ちなみに作事奉行の他、同じように工事をする普請奉行と小普請奉行がいる。
作事奉行は殿屋の建築、普請奉行は地取・石垣を中心に扱い、小普請奉行は作事奉行が取り扱う殿屋内外の煩雑な工事を掌るとのこと。
小普請奉行だけ下役みたいなかんじ。作事奉行や普請奉行は老中支配で芙蓉の間詰なのに対し、小普請奉行だけ若年寄支配で中之間詰らしい。
休息間(休息間御庭之者支配)
『江戸幕府大事典』には休息間御庭之者支配については記載がない。御庭之者とは警固を掌った人のことを言うらしい。
そもそも休息間自体2つに分けられるらしい。川村が警固していたのはどっちのことを指すのか、よくわからない。
1. 江戸城本丸御殿の中奥、萩廊下の西隣にあった部屋。将軍の寝所および将軍が政務をとった部屋である。
2. 大奥の西北隅に位置する部屋。新御殿の一部。御台所の居間として用いられた。
どちらにしろかなり重要な職で、だからこの職に就いている間は毎年服を頂戴することができていたのだなと。
細工頭
細工方の職務を総括する長官。部下は50名前後。役目は江戸城内諸施設の建具・道具類の新調・修繕を差配し調進すること。
賄頭
膳所や奥台所・表台所で使う魚・肉・野菜など一切の食料品の出納を行い、膳・椀・家具・湯道具・草履・下駄など日常品の供給などを掌る役職。部下の種類も多く、いちばんしたっぱらしき賄方六尺だけで350人いたらしい。
台所頭
表台所方は大名・諸役人への食事の調理を行う役職。賄頭と兼務も納得のお仕事。
御簾中用人
御簾中の付衆の頭取。西丸の広敷のことを掌る。500石高で役料300俵。
様々なものが献上される次期将軍の正室、その側近トップ。そりゃ本書にあるようにいろんなものがもらえそうだ。
小普請奉行
役職は作事下奉行のところに記載。ちなみに2000石高。川村の元高は小松著によると200俵なので、たいへんな足高が付いたはずだが……。小松著は晩年尻切れトンボで終わってしまうので、この辺について話がほとんどない。
おまけ『徳川幕臣人物辞典』での川村脩富と謎
「修」の漢字が違うのは『徳川幕臣人物辞典』だとそうなっているから。
・西丸広敷の添番
・西丸山里の御庭番
・鳥見役
・作事下奉行
・御休息御庭者支配
・賄頭
・文政12年(1829) 小普請奉行(高2000石)
・天保7年(1836) 御簾中用人(高500石 役料300俵)
興味深いのが最後の小普請奉行と御簾中用人の順番。小松著だと以下になっている。
・文政12年(1829) 御簾中用人 (高500石 役料300俵)
・天保7年(1836) 小普請奉行 (高2000石)
流石に本人や息子の備忘録が合っているはず。高だけだと大降格になってしまうし。『徳川幕臣人物辞典』、ひいては参照元の寛政譜や柳営補任が誤っているということか?単なる誤記だろうが、頭から信じるのは危険ということか。